「くやしさ」の先にあるもの
国公立大後期日程も終わり、
一部私立大の3月入試を除いて、今年の大学受験もそろそろ終わろうとしている。
きっとどの受験生にとっても、
達成できた目標もあれば、果たせなかった部分もあるだろう。
大学受験は10-0ではない。
どの側面で見るかによって「成功」か「失敗」かは変わってくる。
第一志望に合格したとしても、
結果的にどこかに合格して春から大学生になれるとしても、
「全勝で終えたかった」
「数学は満点取りたかった」
「共テの点数が目標より50点も低かった」
「第一志望の学部じゃない」
みたいに、どこかしらにくやしいポイントがある人がほとんどで、
きっと試験を受けた受験生なら、
くやしさを味わうことなく受験を終えられる人はいないんじゃないか、と思う。
「くやしい」を辞書で引くと
「自分の無力を思い知らされる、
辱めを受けたり、あきらめられず腹立たしい気持ちや
残念でたまらない気持ち」
と書かれている。
つまりくやしいという感情は、ベクトルは自分に向いたもの。
こんなはずじゃなかった、
もっとこうすればよかった、こんな自分は認めたくない、恥ずかしい、許せない。
どうしても実現したかったのに、自分のせいで叶えられなくて情けないし、あきらめきれない。
こんな風に、自分を責める感情だし、
そうなるということは、それだけ本気だったということ。
結果は変えられないし、その結果を招いたのは自分の責任だとわかっているから、くやしいくやしいと歯ぎしりするしかない。
しばらく眠れなかったり、泣きたくなったり、投げやりになりたくなったり、
いろいろな感情が渦巻いて、自分の中であらゆる種類の会話が飛び交っているはず。
それは無視しちゃだめで、どれだけ痛くてもしんどくても重たくても、
自分が受け止めなきゃいけない。
その先に、絶対に絶対に得難い成長がある。
オトシマエをつけたことがあるかどうかで、
人生に対する覚悟も変わる気がする。
だから合格したか、しなかったかだけで成否を判断しないでほしいと、
受験を終えた若者に言いたい。
この結果から何を学んだか、何を得たか、
この経験が何に活かせるか、「この道が結果的に正解だった」にするために何が必要か、本気で向き合ってほしい。
くやしい涙ほど、人の胸を打つものもないし、
くやしさを味わった人に、おめでとうといいたい。
おつかれさまでした。