「ワガママに生きる」って?
今日、「老後の資金がありません!」という映画を観てきました。
夫がチケットを買ってくれていたのに、
日曜日に勉強会の予定を入れていたので
一緒に観に行けず、でももったいないから一応…
ぐらいの気持ちだったのに、
気付いたら笑って笑って、涙がホロリ。
映画のあと、「わがままに生きるってなんだろう」と考えさせられました。
きっとわがままには2種類あって、
1つ目は視点が足りないがために
無意識にも周りに配慮できず、
自分の思いですら上辺しか気づけず、
なんとなく自分本位の選択をしてしまうこと。
もう一つは、もしかしたら自分がこの選択を
することで意に添わない人がいるかもしれない、
ガマンをさせることがあるかもしれないけれど、
どうしても受け入れてほしい、と信念を持って
意思を通そうとすること、かなと思います。
「我が・儘」という言葉の通り、
自分の思いままに生きるためには
これはどうしても必要なことなんだ!と
決めて、説得するイメージですね。
前者の残念さはだれもが理解できると思いますし、
だからこそ「わがままはいけない」と言われてきたのでしょうし、
わがままな人=思いやりのない人といった
マイナスイメージがあるのだと思います。
でも、前者の「わがまま」が残念なのは、
結局本人も幸せになっていないこと。
どうしてもこれがほしい、これがやりたい、
こうすれば少なくとも今自分は幸せになれる!
という意思もないまま、なんとなく周りに迷惑だけかけてしまう。
これでは、だれからも応援されない人になってしまいます。
後者のわがままは、一時的にだれかに迷惑をかけたり
ガマンをさせたりすることになるかもしれませんが、
そこには「意思」があります。
その迷惑やガマンを受け入れることで、
達成できることがあり、
結果満たされる人がひとりはいる。
そういう場合、「しょうがないな」と思っても
応援したくなったり、ガマンや迷惑が
「その人の目標達成に参加している」と
感じてもらえることすらあるかもしれません。
ガマン=犠牲と捉えてしまい、
相手に迷惑をかけてはいけない、
だからわがままをいってはいけないと思うことが、
手の応援する機会を奪うことになるかもしれないわけです。
もちろんわがままの種類や程度によりますし、
相手の気持ちや状況に配慮できる視点は
素晴らしいことなのですが、
「一生ワガママは言わずにいる」という生き方もまた、
自分だけじゃなくて周りの大切な人にとっても
きゅうくつで、幸せじゃないことかもしれない。
だって、大切な人が楽しそうに満たされて
生きていけることって、周りの人にとっても幸せなことだから。
例えば私がずっとガマンし続けるとしたら、
夫にとっては全然ありがたくもなんともなく、
むしろ非言語で伝わってくる被害者意識の方が
迷惑でしかないのかもしれない。
かといってわがままに自己中心的に、
周りなんておかまいなしにふるまうなら、
もっとこっちのことも考えてくれよと怒り出すでしょう。
だったら持ちつ持たれつ、ガマンとわがままの
バランスを取り、支え合いながら、
なるべくお互いのやりたいことを実現できるように
意思表示しあい、応援しあう方が幸せなのかも。
「私はちゃんと、意思あるわがままを持てているだろうか?」
と考えさせてくれる映画でした。
例えば、「会社を辞めること」「起業すること」
「転勤すること」など、ライフステージの変化を
目の前にした時は、
「この選択が相手にどんな影響を与える?」
「それはどっちのわがままに該当しそう?」
と考えてみると、
むやみに「私ががまんすればいい」と引っ込めることも、
「家族なんだから合わせるのが当然でしょ」と
押し付けてしまうことも避けられるかもしれませんね。