「脅威」を利用する
今日は、アート講座に参加してきました。
元大英博物館のキュレーターである日本人の先生が、
ロンドンの美術館や博物館の展示物や作品の解説をしてくださる講座です。
今日はコートルード美術館にある、印象派の作品がテーマでした。
うんちく大好きな私にとって、一つひとつ解説を聞くのは、自分の中の小さな引き出しに宝物の包みが増えていく、とても豊かな時間。
その中で一番印象的だったのが、ドガの「踊り子」にまつわるお話でした。
(うっかり写真を撮り忘れてしまったので・・・こちらの「ステージ上の二人の踊り子」という絵です)
第一回印象派展に出展したドガの踊り子は、当時はセンセーショナルな問題作。
モチーフも筆遣いも、サロンの伝統からするとありえないものだったそう。
さらに踊り子をやや右上に配置して余白を作り、正面からではなく舞台袖側、かつ上の方から見下ろすような構図も、かなり常識外れだったそうです。
この作品が生まれた背景にあったのが、「カメラ」の登場。
それまで画家が風景画で試行錯誤していたのは「いかに目の前の風景を2次元の中に精巧に写し取るか」ということ。
だから筆のタッチなど感じさせない、写真のような描き方をしていたんですよね。
でもカメラの方がはるかに正確で、かつ素早く風景を写すことができるわけです。
まるで生成AIの台頭に怯えるライターのようだな・・・と思いながら聞いていたのですが、
ドガは脅威にもなり得る文明の利器を早々に利用したのだそう。
踊り子をモデルに絵を描く時は、これまではせっせと通い詰めて脳に刻み込んでは、記憶をたどるしかなかったはず。
でも写真を撮れば、その瞬間をずっと留めておくことができる。
しかも、従来なら難しい角度も含めて、さまざまなアングルからそのシーンを捉えることができます。
だからこそ、あの「踊り子」の構図を実現できたわけです。
その結果、舞台上に空白の空間が生まれ、見ている側に物語を想像させる効果を生み出しているのです。
ドガがやりたかったのは、ありのままの風景をキャンパスに写し取ることではなくて、新しいアートを生み出すこと。
美術学校で伝統的な手法を学び、古典美術にも精通していたその延長線上に、新しい絵の世界を打ち出したかった。
そのためには、脅威ともなり得る新しい機械も率先して活用していたんですね。
(ちなみに構図の新しさには写真だけでなく、葛飾北斎などの日本の浮世絵の影響も大きかったそう)
「AIに書けないものとは」という探究は、ライターや小説家、エッセイストの間でもよく話題になります。
私も記事の構成を考える時に壁打ち相手になってもらったり、書いたものを校正してもらったりしていますが、それこそ引き出しの量が比べ物にならない。
そろばんとスーパーコンピューターで暗算の競争をするようなものです。
でも、カメラにタッチのオリジナリティを出すことはできないように、
「体験」したり「解釈」したりすることは、AIにはまだできません。
だれかの体験やだれかの解釈を持ってきてつなぎ合わせているだけ。
一方で生身のライターの場合、
どれだけ正確にインタビューで話されていた意図を再構築しようとしても、
どれだけ取材相手になりきっても、
どうしてもどこか、にじみ出てしまう「自分」が含有されている。
そのわずかな異物こそが、書き手の個性であり魅力なんじゃないかと思っています。
だから今後どれだけ技術が発展していくのかはわかりませんが、
今時点ではその瞬間の「体験」や「解釈」をできる限り濃密なものにするための
準備として、AIを活用するといいのかな、と思っています。
芸術も感情も感性も、正解はない分野だからこそ、解釈の余地がある。
でも解釈するにはある程度は情報が必要。
へええ、と思えるくらいのインプットは得意分野のAIに手伝ってもらいつつ、
「私」はどう受け止めたのか、それをどんな言葉で表現するとしっくりくるのか、という探究は自分がやるしかない。
そのためにも、ささやかな引き出しの中に薄紙のような「実感」やら「解釈」やらをせっせと積み重ねていくことが大切なのだろうな、と思ってます。
写真は一つ下の階に飾られていたルーベンス。アントワープで見てきたあのネロとパトラッシュが最期に見た大作の、構図を確認してもらうために書いた習作です。
やっぱ、宗教画は教会に飾られている方がいいな。
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