足りないのは才能じゃなくて
「反応がない」という強烈なフィードバックが痛すぎる
SNSでもnoteの記事でも、発信すると「反応」が自分にも周りにも見えてしまう。
渾身のツイートや記事に、いいねが10しか付かなかった。スキがなかなか20を越えない。ビューが1000にも満たない。
ああ、私には文才がないんだ。
人の心を動かす才能やセンスがないんだ。
もうやめてしまおう。こんな恥ずかしくも苦しい気持ちになるぐらいだったら。
そんな風に思ったこと、ありませんか?
私も時々、あります。
鉄板と言われる自己紹介ページですらあんまり「スキ」の数が増えない、けっこう構成もレトリックも考えたつもりの記事が、思ったほど伸びない。
ライターのくせに。
編集を20年近くやっていたくせに。
「ライティングコーチ」なんて名乗ってるくせに。
恥ずかしいし、悔しい。
そんな自分を見られたくないし、そんなたいしたことない自分に出会いたくない。
くよくよ、グズグズしています(笑)
「反応がない」っていう無言のフィードバック、キツイ。。
でもね、うすうす気づいています。
足りてないのは、才能じゃない。
「量」なんです。
それに気づけたのは、会社員時代に直面した「仕事ができない」問題でした。
「できる」の7割を占めるもの
大昔、まだ会社員として編集の仕事をしていた時のこと。
かなり大きな特別付録の取りまとめを任され、プロジェクトメンバーは他部署の人も含めて30人以上。予算も億を超えていました。
責任ある立場として、判断を仰がれる日々。
媒体の編集方針の決定や原稿チェックにとどまらず、進行管理から編プロとの折衝やら、部署間の調整やら参加してくれているメンバーの評価やら、やることが山積みでパンクしそうになっていました。
自分のした判断に自信が持てず、メンバーの顔色を窺っては「これで正解?」と不安になったり、効率的に進められなくて凹んだり。
自分の仕事のできなさ加減に本気で落ち込みました。
周りがまじで超頭のいいシゴデキだらけだったのもあって、自己肯定感は地の底。
この頃のワタシ、いつも無意識に胃のあたりを手で擦っていたらしい。
「無理!!こんな大きな仕事、私にはできる気がしない・・・」
家で思わず弱音を吐く私に、夫がかけてくれた言葉が、
「仕事のできる・できないは、7割以上が“経験”だからね。
やったことないなら、できないことがあって当たり前だよ。経験するしかない」
でした。
そうなの、か・・・?
仕事ができる人って、生まれつき頭がよくて、同じものを見ても脳に流れる電流の量やら回路の複雑さやらが違って、だからひらめくことや気づけるものが全然違うんだとばかり思っていたんだけど、
「できる=何度もやったことがあるから」っていうだけなの・・・?
それが7割以上なの・・・?
夫の説のエビデンスはよくわかりませんが、なんかめっちゃ腑に落ちました。
「そりゃやったことないんだから、できないよ。
だから今やって、できるようになっているとこ!
経験済みの人に教えてもらいながら自分も経験を積めば、7割はギャップを埋められるよね」
といい意味で開き直れるようになれたんです。
そこからは、周りを頼って知っている人に教えてもらえるようになったし、できない自分を必要以上に責めなくてすむようになったので、かなりプレッシャーから解放されました。
足りていないのは、才能じゃなくて経験。
そう考えたら、やれることは明確になりません?
才能はどうにもならないけれど、経験なら自分で機会をつくれますから。
才能に悩んでいいのは、1000記事発信してから
noteも同じ。
思うような反応がないのは、才能がないからじゃなくて書いてる量が足りないだけかもしれない。
1000記事書いてから、悩め。
経営幹部50人の前でプレゼンできるようになるのも、
人前でヒップホップダンスを踊れるようになるのも、
レゴでダラム大聖堂をつくれるようになるのも、
そこに至る「経験」が必要。
急には無理。
大谷翔平は一日にしてならず。
めっっっっちゃ練習して、めっっっっちゃ経験積んだからこそあそこまで至っているのに、「才能」だけで片づけるのは失礼って話ですよね。
「恥ずかしい」と思うほど人は自分に注目していない
だいたい、人は思っている以上に周りのことなんて見てません。
他人が自分のことに注目しているなんて、勘違いにもほどがある。
「こんなに読まれていないことが周りにバレちゃって、恥ずかしい」なんて思っても、そんなことに気づいている人なんてまあ、いません。
私の書くnoteにスキが何個ついたか、デイリーで観測してるほど暇な人が、いったいどこにいるっていうんだ。
「あれ?この記事全然読まれてないね?」なんて気づかれるのは、
毎記事300も500もスキがつくような、注目されている「たいした人」だけですよ。
それはそうなってから、悩め。
って、自分に言い聞かせてます。
3人が読んでくれたらそれでいい
こんな風に分解していくと、けっこうなカンチガイがいっぱい紛れていることに気づいたので、最近私は改めてゴールを設定しました。
3人読んでくれたらそれでオッケー。
よくわからない有象無象に読まれたいと思うと、なんだかよくわかんなくなって迷走し始めるので、
3人が読んでくれたら上等。もうそれで書いたかいがある、と考える。
で、そのうちの一人が、「未来の自分」なんです。
私がnoteを書くのは、自分の気づきや経験がだれかの役に立ったりしたらいいなと思っているのもありますが、
なにより「忘れたくないから」という動機が大きいんです。
せっかく今の自分が出会っている感慨や感動や気づきを、忘れたくない。
でもほっとくとすぐに上書きされて、薄まったり混ざってよくわかんなくなったりしちゃうんですよね。
だから、未来の自分と「あの時、ああだったよね」とわかち合えるように、書き残してる。
少なくとも未来の自分は読むはずだから、あと2人くらいが読んで「スキ」「いいね」と思ってくれたら、もう御の字です。
時々コメントをくださる方がいると、嬉しくて「もうこれだけでいいや~」と思えます。めっちゃご褒美。
量を書いて発信して、勝手に恥をかいて・・・と経験を重ねていけば、才能のせいにしなくてすむ、言い訳できない場所までいける気がします。ていうか、行かないと。
ライターとして原稿を書いている時は、原稿料に見合う、クライアントが求める価値を提供できるだけの原稿を納品する必要があります。
編集者としての仕事は、人が書いてくれた文章を、ゴール(受け取り手に届けたい形になっているか)と照らしながら整えていくもの。そのコンテンツで、必要なアクションを引き起こせるかに責任を負う仕事です。
つまりnoteやSNSでの発信と、仕事として書いているものはゴールが全然違う。
noteのゴールは自分で決めていい。
3人が読んでくれたらOK、とかね。
ということで、こんな風に低空飛行ながらも自分なりにnoteを楽しんでいけたらいいなと思っています。
ちょっとは、発信のハードルが下がったでしょうか?
恥ずかしいのはみんな同じ。自信がないのも一緒。変な汗かいていきましょうよ。発信した人にしか味わえない感慨があるはずだから。
そして読み手としても、少なくとも、
「読者の求めるものなんて、こんなもんデショ、ターン!(リターンキーを押す音)」と書かれた文章と、
おなかの中に恥ずかしさをいっぱい抱えながら、それでも自分の思いをせいいっぱい綴ってそっと差し出した文章の見分けぐらいはつく自分でいたいな。
そして後者の記事に、愛をこめて「スキ」を押して、時々はコメントも書いていきたい。
それがまた、だれかの書き続ける理由になるかもしれないから。
確実に読んで感想を伝えてくれる相手がほしい人へ。
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