「信頼」と「依存」の違いは?

ericoach1

今日は夫と月に1度の高尾山登山DAY。

もうかれこれ1年5か月になります。

夫婦のコミュニケーションを増やすのが目的で始めたので、登りながらあれこれ話します。

そんな中で夫が、「カフェで隣の席から聞こえてきた二人組の会話」についてシェアしてくれました。


中年の男性と、中年の女性。女性はカウンセラーを名乗り、男性が「こういうことをやってみたい」など話すと、女性はすべてを「エネルギー」で説明し、

「いいエネルギーがそちらの方向に流れている。だからやっていい」などとアドバイスし続けていたのだそう。

エビデンスがないものを一切信用しない、そもそも人の言うことをすべて疑ってかかるタイプの夫からすると、相当うさんくさかったらしく、

「何を根拠に言ってるんだ、あんなの宗教じゃないか」

と。

もともとコーチングの効果も疑っている夫(社内でのコーチング研修も聞いてないんだとか)なので、彼からすると、私がやっていることも同じように見えている様子。

山の中で「宗教じゃない!」「似たようなもんだろ」と言い争いになりました(笑)

(ちなみに宗教を否定しているわけではありません。コーチングと宗教は同じではない、と思っているだけです)


議論しているうちにその違いとして、

「この人だから話したいという信頼があるのが前提。

その人の存在そのものを信じさせるのが宗教だとしたら、コーチングも『この人だから話を聴きたい、自分も話したい』という信頼が必要なのは同じじゃないの?」

と聞かれ、この人を論破できるような信頼と宗教の違いって、何て言えばいいんだろう・・・(白目)、と考えさせられました。


私なりに考えてみた結論は、こうです。

相手のいうことを思考停止ですべて丸呑みするのは、「依存」。

この人なら話してもいいと思える相手との対話で、自然に思考を進めることができて、自分で意志決定できるのは、「信頼」。

でも、先ほどの例のように「やりたいことがある」けれど踏み出せない場合、誰かに背中を押してほしいのかもしれない。

否定せず話を聴いてもらい、気持ちよくしてもらって「大丈夫、やってみなはれ」と言ってもらえたおかげで、その言葉をお守りに自分の意志で決断できた、だから依存じゃないという反論もあり得ます。

が、違いが出るのはその先。

うまくいかない時に、だれのせいだと考えるか。

依存した考えや意志決定の先に失敗や不都合があった場合、「あいつの言葉を真に受けたからだ」「あいつのアドバイスが間違っていたからだ」と思ってしまいがちですが、

最終的に自分で考えて結論を出した場合、その過程や結果に責任があるのは自分なので、「じゃあどうする?」「どうやってリカバリーすればいいだろう」などと考えることができるはず。

だれかのせいにしていると、そこで思考が止まり、次の行動ができなくなります。

だからまた、だれかに答えを求めたくなる。

そして自分で考えていないと、相手の価値観で動くので、当然ブレる。

同じようなところで行ったり来たりしているのは、うまくいかない時にその先を考えられていないからじゃないかな、と思うのです。

だれかの力を借りることと、依存することは違います。

自分に依存させようとするコーチやカウンセラーがいたら、そっと離れた方がいい。


ということで、もう少し言語化が進んだら、続きを話してみようかな。

論破しようとするのではなく、「あなたはそう思うんだね。私はこう考えているよ」とアサーティブに伝えてみよう。


「書きたいけれど、書けない」人が書ける心の状態をつくる無料の6日間メール講座をリリースしました。ご登録はこちらから。

コーチングって何?をコーチングを受けながら約7時間で学べる「トラストコーチングスクール」はこちら

ABOUT ME
中原絵里子
中原絵里子
編集・ライター・キャリアコーチ
大手教育出版社に20年勤務後、独立。上阪徹ブックライティング塾9期生、トラストコーチングスクール認定コーチ。
東京在住、3児の母。 コーチングでは、主に働く女性のこれからの働き方を決めるサポートや、ライティングのサポート、挑戦したいことに向けた伴走を行っています。
ライティングでは、教育、勉強法、進路、働き方、コミュニケーションなどをテーマにインタビューや記事作成、ブックライティングを行っています。
記事URLをコピーしました